七海がお腹の中にいることが分ったのは2004年の11月末でした。産婦人科の先生から「おめでとうございます」と言われて二人で大喜びしました。それからは日向ぼっこをしているようなやさしくて幸せな毎日を過ごしていました。大きな器と広い心を持ったやさしいに子にと願いを込めて、生れてくるわが子が女の子でも男の子でも「七海」と名付けることに決めました。

6ヶ月目の検診で異常が見つかり検診を受け続けましたが、生れる前に亡くなるか、生れても少しの時間しか生きられないでしょうと宣告されました。それでも最後まで諦めずに七海が少しでも幸せを感じてくれるように精一杯育てようと二人で決めました。それからはできるだけ話し掛け、笑い、七海もそれに答えるように元気にお腹を蹴って動きまわってくれました。このままお腹の中で育てて続けられれば良いのにと何度も本気で話合いました。

陣痛が始まったと電話を受けたのは会社で仕事をしている最中でした。妻も私も意外なくらいに冷静に、その時が来たことを受け止めました。

呼吸ができずにすぐに亡くなるのならば少しでも母親の肌に触れさせてあげたいと考えていました。
七海は助産婦さんに取り上げられるとすぐに何度も何度も大きな泣き声を上げました。すぐに待機していた多数の先生や看護士の方に運ばれて行きました。
肺は機能しているのかも知れないと祈るような気持ちで七海を目で追い、泣き声を聞きつづけました。
肺が何とか機能してくれれば、老廃物が体に蓄積するまでの短い時間であっても家族3人で過ごすことができるかも知れないと思いました。

七海はがんばってくれました。先生からは無事に生れたのも、生きているのも奇跡だと言われました。それからも奇跡は続きました、日に日に状態が改善していったのです。肺は機能し、腎機能も極端に低いけれどおしっこが出ていました。そして出産から2ヶ月目には週末帰宅の許可が出て、なんと10月には退院できたのです。

しかし七海は私達に心配をかけないように相当頑張っていたようです。12月19日の入院直前まで寝返りを繰り返し、キャッキャと笑い、そんなそぶりは私達にまったく見せませんでした。
入院後、先生からは腎機能は殆どまったく機能しておらず、加えて心臓もだいぶ弱っていると言われました。

以前から腎機能が悪くなった場合は腹膜透析を導入して、安全な体格まで成長したら妻の腎臓を移植することに決めていました。しかしながら12月23日の手術で全てを賭けていた腹膜透析が使えないことが分りました。
妻の腎臓を移植できるまでに成長するには順調にいったとしても最低1年以上は必要で、膀胱の手術も必要です。その間を血液透析だけで延命することは極めて難しいため、日本では2ヶ月後(2月末)に生きている可能性は1%もないと宣告されました。

私達はいつのまにか、奇跡が起きて七海はもう大丈夫なんだと思い込んでいました。
乳児に血液透析を行う場合、麻酔で眠らせる必要があります。七海を眠らせたままで最後まで血液透析を続けるのか、血液透析を止めて目を覚まさせて家で看取るのか、私達にはどちらかを選択するしかありませんでした。七海はきっと私たちに抱っこされたいに違いない、あやされて最後を迎えたいに違いないと考えて、自宅に連れて帰ってどんなに辛くても最後を看取ってあげようと二人で泣きながら決めました。

しかしどうしても諦められませんでした。七海を救う方法を一晩中探すうちに米国での移植で七海を救うことができるかもしれないと考え始めました。

七海を救うために協力してくださっている皆様へ
この度はお忙しいところ七海を救うために協力してくださいまして本当にありがとうございます。
お腹の中にいる間から七海は懸命に生きようと頑張ってきました。私達夫婦も決して諦めませんでした。
しかしながら今、七海と私達夫婦だけではどうしても力が足りません。
どうか皆様のお力をお貸しください。
どうか宜しくお願い申し上げます。

中山 明・美紀子